メディア戦略なき経営は、犯罪である
「メディア戦略が必要だ」ということを、このところ痛切に感じています。
われわれは人類史上、最高のメディア環境に身を置いています。しかしながら、あまりにもその恩恵をムダにしていると感じずにいられないのです。
先日、都内の病院に入院しました。そこでしばらく一切のメディア類に触れることを禁じられました。
最初は落ち着きませんでした。
仕事柄、テレビや新聞、ネットニュース類をひんぱんにチェックする方だったからです。
新聞記者時代から、情報を早く取得したいという欲求に慣らされ、「世の流れに遅れる」ことへの恐れが意識に植えつけられていたのです。
ところが、1日、2日、3日と経つうちに気づきました。
「数日、情報を遮断しても、何も問題は起きない」ということ。
そして「いかに今まで毎日ゴミのような情報に振り回されていたか?」ということにです。
溢れるメディアの情報から離れてみて、むしろ自らの思考がクリアになっていくのをひしひしと感じました。
われわれは、情報取得の中毒になっています。それを自覚できている人はほとんどいません。
その結果、「他人のどうでもいい情報」に人生を振り回され、本当に大切なものを見過ごしてしまっています。
情報発信者は、現場と向き合っているか?
ここまでは、情報の受け手の話です。次に情報を発信する側の話をします。
多くの情報発信者には、現場への想像力や、情報の受け手への思いやりが決定的に欠けている、と指摘せざるを得ません。
インターネットでエセ評論家が激増しました。現場を知らないまま、口先だけの理屈を振り回すネットユーザーがよく見られます。
ただこうした現場からの遊離は、ネットに限らず、テレビ新聞といったマスメディア関係者にも進行していると感じます。
テレビ新聞が世の中の現場ときちんと向き合った報道をできているか?ちょっと疑問です。
メディアは、「受け手のため」に存在するもの
僕のメディア原風景は、新聞配達にあります。雨の日も風の日も雪の日も、汗水流して一人一人に心をこめてお届けする行為です。
軒先の草花や玄関の装飾ひとつ目にしても、そこに人の生活があることがリアルに伝わってきます。
情報の向こうに温もりを持った人がいる、悩みながら一所懸命生きてる人がいる。
メディアとは結局、そうした受け手の生活者のお一人おひとりのために存在するものです。
そこへの理解がないまま、いくら口先の理屈を語っても、ニセモノに過ぎません。
あなたにはきっと、広めたい情報があるでしょう。ですがそれは、本当に受け手のためになるものですか?
また、現場で汗水流して働いている人に報いるものでしょうか?
自ら汗をかかず、楽しようとしていませんか?
ただ目先の利益を求めることしか考えずに、小手先でゴミのような情報を発信することは、誰のためにもなりません。
結局は、自らの価値を貶めることになり、自分も傷つけてしまうのです。
世の中に価値ある情報を、正しく発信していこう
ウェブとIT技術の進歩に心から敬意を表します。先人と現代の技術者たちの努力を賞賛します。
その上で僕は主張します。テクノロジーは人間のためにあるものであって、人間が隷属するものではない、と。
「流行りだから」とソーシャルメディアに飛びついて情報を無分別にまき散らすのは愚行です。
あるいは、資金力にものを言わせて、力技で各メディアに自社の宣伝情報をねじ込む行為もまた愚行です。
エゴイスティックな利益追求の観点のみから、公共財たるメディアを汚す行為は、ほぼ犯罪です。
メディアの本質とは、「人と人を結ぶもの」です。いくら時代が進んでも、人間の本質は変わりません。
人と人がつながっていくことに、人生の価値と喜びがあります。
ご存知の通り、人間とは簡単な存在ではありません。一人の人間にも多種多様な側面がありますよね。だから面白いのです。
メディア活用においては、表面的な上っ面ではなく、有機的な人間のつながりを築いていく視点が、これから確実に必要になってきます。
小手先・無鉄砲なメディア濫用ではなく、長期的・本質的なメディア戦略を持つことを、ぜひ考えていただきたいのです。